昭和50年01月01日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。牛馬は我が子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
人間は人を助ける事が出来る。それが有難い。それを有難いと心得て信心せよ。今年は一つ愈々人間は人を助ける事が出来ると。本当にあの助ける事が出来る信心を身に付けたい。しかもその助ける事が有難いと心得て信心する。それが有難いもう最高の有難いものだと心得て、今年は信心をさせて頂く。それには先ず自分自身が、真実助からなければ駄目です。自分が真実助からせて頂く所から、本当の人が助かる。または助ける事が出来るというおかげになって来ると思うんです。
それには先ず、どうしても自分自身が助からなければならない。自分自身が助かると言う事の為には、愈々信心が言うなら、そう言う信心を目指させて頂く、その心が愈々楽しい、有難いものになって来なければならない。御神前で頂きます事は、私はあのゴルフと言う物をした事がないですけれども、やっぱり大変楽しいものらしいですね。そしてその唯楽しいというだけではなくて、大変健康にも良いま遊びらしいですね。健康にもなる。ね、楽しゅうもある。
言うならば一挙両得というのが、ゴルフだと言う訳ですけれども。あのゴルフをしておる人の姿が例えて言うたら、私は右も左に上げるかどうか分からんけれども、唯右なら右にこうやって上げねばならんのを、反対にこげな風にして振り上げとる所を頂いた。是では上達もすまいし、是では楽しい事もないだろうし。ひょっとすると反対に振り上げちから、こう筋の違うたり、間違うたりする様な事がありだんせんじゃろかと思うような、ね。あれの、あれは何というでしょうか。
こう打つ曲がったあの、打つものはなんと言うか知りませんけれどもです。結局あの持ち方というか、姿勢というか。信心の有難くなる有難くならない。楽しい楽しくないはもうその信心の本当の目指しと言う物を、はっきりする事にあると思うです。それはね。ゴルフが楽しい遊びであると同時に、健康にもなります様に信心の稽古というのはね。もうそれは自分の為人の為。いや自分の為だけではない子孫の為そして、自分があの世へ行ってからの事の為。もうそら大変な稽古なんです信心の稽古と言うのは。
だから其処ん所の焦点を間違えておる人は、はっきり其処の焦点をです、焦点を本当の所において、そして本気で稽古をすると言う気にならなければいけん。ね。皆さんおかげも受けなきゃならん。でそれはだから本当に信心の楽しさが出来て来ると言う事はもう、おかげは付いて来るもんです。ね。
だからおかげを本当に目を見張る様な、まぁ本当にまぁ信心しておかげのあるは、不思議とは言うまじきものと仰るけれども、不思議と思わにゃおれない素晴らしいおかげにも成って来る。だからそういう不思議なおかげだけを目指すと言う信心ではなくてやっぱり、ね。何処迄も先ず自分のこう振り上げておる、そのまぁゴルフならゴルフをやる、その右に持たなければならないのを左の方へあの、持っておる様な姿勢では上達するはずもないし、それでは直ぐに飽きが来る事であろう。
先ず一つ構えというか姿勢をね。又は目指す焦点と言う物をはっきりして。信心が先ず有難いもの、楽しいもの、ね。其処から信心の上達も自分自身本当に助かると言う事も出来るのです。私は今朝方お夢に敬親会の方達にもうお話をさせて頂いておるんですが、自分がお話をしながら丁度此のテープレコーダーを聞いておる様に、私の声を非常に大きく拡声して、あのお話をしておる所を頂いたんです。しかもまぁ二十何人位でしょうか敬親会と言えば。敬親会というのは六十五歳以上の年寄りの方達の会なんです。
親を敬う会という敬親会。の方達に一生懸命にお話をさせて頂いておる。もうそれも大変素晴らしい事をお話しておるけれども、一つも残ってない。とにかく素晴らしいお話であった。けれどもそれがどういうお話であるかというとね。如何に死ぬるかと言う事をお話しておるです。是が信心のね目指しです。ね。それにはね如何に生きるかと言う事が問題になるのです。だからその如何に生きるかと言う事がです信心の稽古なんです。ね。敬親会の方達と言えばお年寄りの方。
だからまぁ言うなら若い者よりも、言うならば死に近いまぁ人達、ね。けれども私は敬親会というのは親を敬う会。所謂天地の親神様を、本当に有難いと敬わせて頂く人達の事ですから、私は全信奉者に言える事だと言う風に思いました。そして信心のギリギリの目的というのは、如何に死ぬるかと言う事なんです。ね。其処にです、所謂死生の安心と言う物が生まれて来る。
死生の安心が生まれて来る程しのおかげを頂いたら、ね。あの世に言うなら、お徳を持って行け、この世に残して置ける程しの物が、御徳を頂かなければ、死生の安心なんて言う物は生まれて来るもんじゃない。どうして人間は、生まれたというからには、必ず一遍は死ななきゃならない。もうそん時はそん時と言った様な安心とか、投げやり的なものではなくてです。ね。本当にそれこそ、有難くお国替えが出来れる事の為に信心はあるのです。いやその時に、ね。
何を持って行けるかと言う事です。何を残しておけるかと言う事です。如何に死ぬるかと言う事をもうそれをまぁ、お話をさせて頂ながらそれを聞きながらです夢の中で。そら素晴らしい表現で素晴らしいそのもう皆が、一々その感銘して聞いておられるお夢でしたけれどもです。ね。合楽では私は矢張り日に日に、言わば如何に生きるかと言う事を説いておるんだと思います。如何におかげを受けるかと言う事じゃないです。
如何にその生き方におかげは伴うて来るんだと。生き方におかげがスムーズになって来るんだと。ね。だから今日私が皆さんに言う、信心のその目指しと言う物がです。そういう言うならば深遠な物なのですから、ね。大抵もう御道の信心によっておかげの受けられる事は、言わば分かった方達ばかりなのですから、ね。其処ん所の焦点をです、ね。例えば持っておる物を、左に持っておる物を右に例えば持ち変えるという、ね。本当な姿勢を作ると言う所に焦点を置いて、如何に生きるかと言う所のおかげをです。
日々の御理解によってはっきり頂いて、ね。そこに自分自身の助かり、ね。自分一家の助かりの事にも繋がって来る事だと思う。ね。その助かりを頂かずしてはです、ね。人を助けると言う事は先ずは出来ません。ね。今年は人間は人を助ける事が出来る。しかも最後に、その助けれる事が有難いと心得てと言う所をです。人を助ける事を有難いと心得て信心をする。それには唯ほんなら、ね。唯ほんなら助けたい助けたいと言うとって、助かるはずはないのです。ね。
自分自身が助からなければならん。力を受けなければならない。ね。其処からです人を助ける事の楽しさ、有難さも出来て来るとにかくゴルフの稽古を、ゴルフをやる人達がです。あぁまた今日ゴルフせんならんと思うては、ゴルフの稽古はしないもう楽しゅうして、楽しゅうして矢張りだろうと思うんです。そらねやった事がないから。ようにですしかもそのゴルフがです、楽しいだけではなくて健康の上にも役立つというのですから、信心は唯健康だけではない。ね。
お金儲けだけじゃない。おかげだけではない。ね。もうそれこそ私共があの世この世を通して、是を頂いておかずにはです。人間の本当の幸福は有り得ないと言う程しの物が、信心なんですから。ね。それにはその信心が楽しゅう成る為に私は姿勢を、本当に変えなければいけないて。信心が楽しゅうして有難うしてと言う事でないならば、先ず姿勢が間違うとっです。ね。
信心のその頂き所頂き方と言うのが、間違っておるのです。ね。ですからもう本当の信心の目指し、目的と言う物をはっきりさせて頂く、言うならば姿勢を作って信心が楽しゅう、有難うさせて貰えて、ね。初めて人の難儀を助けるのが有難いと分からせて頂くのです。愈々言うならば、今年は本格的な合楽示現活動に参画のおかげを頂いて、ご神意に添い奉りたいと言う念願を燃やして、一つ信心の稽古をして頂きたい。私も勿論です。のおかげを頂きたいと思います。
どうぞ。